大統領職からの引退を前に、オバマ大統領が演説を行った。1月10日のことである。そのスピーチの中で、とても印象に残ったことばがある。そのまま引用したい。
"Understand, democracy does not require uniformity. Our founders argued. They quarreled. Eventually, they compromised. They expected us to do the same. But they knew that democracy does require a basic sense of solidarity - the idea that for all our outward differences, we're all in this together: that we rise or fall as one"
「理解してほしい。民主主義は同一性を前提としないということを。
我々(合衆国)の創始者たちは、議論し、言い争った。そして最後には譲歩した。彼らは、私たちにも同様のことをするよう期待した。
しかし、民主主義は基本的な団結意識を必要とすることも、彼らは知っていた。私たちには差異があるからこそ団結する、そして盛衰を共にするのだ、という思想である。」
話題を少し変えよう。元旦早々、まだ中学一年生の従妹と、このような会話をした。
筆者: ねえねえ、クラスにさ、どう頑張っても意見が合わない人がいたらどうする?
従妹: とりあえず、話し合ってみる。
筆者: うん、そっかそっか。じゃあさ、話し合ってはみたんだけど、やっぱり最後の最後で譲れなくて、お互いの考えに賛成できません、ってなったらどうする?その子との関係は、その後はどうする?
従妹: もうその子とはあんまり関わらないようにするかな。
この従妹の解答、処世術的には結構いい答えなのではないだろうか。話しても考えの合わない人間とは、そのまま付き合い続けて無駄な軋轢や緊張を生むよりは、なるべく関わらないようにして、共同体の和を保っていこう。日本的な考え方といえばそうかもしれない。
けれども、分かり合えない人とは交流しない、ということは、自分の周りに同じ考えを持つ人間ばかりを侍らせることを意味する。これは複数の理由で危険である、と私は考えている。
第一に、真実を歪曲させる。自分の周りには、自分と同じようなを主張している人ばかりだから、それがたとえ現実に起きていることと異なっても、気付かない。自分の耳に入ってくる情報(しかも、大体は自分の考えや信条を肯定し、固定化する情報)が、ほぼ唯一の「真実」となる。
これが痛いほど露呈したのが、大統領選挙の日のアマーストであった。このウルトラリベラルとも呼べるような環境において、多くの生徒がクリントン氏の勝利を信じ込んでいた。「これだけみんながヒラリーを応援しているんだから、トランプが勝つわけない」「メディアの予想だってクリントンが勝つと言っているではないか」と。しかし、そのような楽観的な読みは、昨年の11月8日に見事に打ち砕かれた。
トランプ支持者はいたのだ。アマーストのコミュニティにも。ただ、あまりにもブルーな環境の中で彼らは表立って自分の政治的信条を明かさなかった。民主党支持者も共和党支持者の声に耳を傾けようとしなかった。クリントン支持者の声だけが日に日に大きくなっていたのである。この集団思考によって、クリントン支持者の選挙予想はかなりバイアスのかかった、現実離れしたものとなったのだ。アマーストで教える教授の中には、トランプ氏にも勝算があることを、選挙のかなり前から気付いていた人もいた。そういった人たちの目は、群れに群れているクリントン支持者の声によって曇ることがなかったのだろう。
自分の考えを肯定してくれる人間とばかり付き合うことの第二の弊害は、共同体内に亀裂を生む、ということである。「話し合っても同意できないあなたとは、もう話しても意味がない」と尚早に結論付け、それ以降のコミュニケーションを諦めてしまう。これは、相手がなぜそのような考えに至ったのか、自分と相手の意見が食い違うのは何故なのか、という思考をも放棄することになる。
それだけではない。ある一点に関する考えの食い違いのために、その個人との関係性を全て絶ってしまうこともある。「トランプを応援するやつはきっと頭がおかしい。何をしたって意見が合わないに決まってるんだ」というクリントン支持者。「女性の権利を平気で侵害してるムスリムとは関わらないほうがいい」という「リベラル」なクリスチャン(イスラームの教義が女性の人権侵害を肯定しているというのはかなり議論が分かれるがここではこれ以上論じない)。こうして、一つの国、一つの学校、一つのクラスの中に、ぱっくりと亀裂が入っていく。
第三に、自分と似た人ばかりと付き合うのは、論理的に考えれば、自分にとって損だ。触れたことのない世界や価値観と出会う機会を、自分の手で放棄することになるからだ。常に「あなたは正しいね」と言ってくれる人とだけ交流すれば、確かに居心地はいいかもしれない。でも、ひどく単調で刺激のない日々を送ることになろう。私の大親友と私は、意見が一致することは多くない。でも、話せば話すほど、「そういう考え方もあるか!」「そんな風に思ったことなかった!」と多くを気付かされる。たとえ「こいつちょっと好きじゃないんだよなぁ。。。」と思う相手でも、腰を据えて、彼・彼女の考えに耳を傾けているうちに「同意はできない。でも共通点もあるから、工夫すればやってけるかも!」と思うこともある。
自分を肯定してくれる人間とばかり付き合うと、個人としての成長の機会も奪われる。自分の意見に挑戦してくる人がいたら、一生懸命自分の主張を弁護する過程で、より洗練された意見を持てるようになるかもしれない。自分がなぜそのような結論に至ったのか、ということを改めて考え直す必要に迫られるかもしれない。答えはAだけだ!と思ってたのは実は思い込みで、よくよく考えればBもCもありえるなぁ、と考えが改まるかもしれない。いずれにせよ、自分のそれとは異なる主張やアイディアに触れることで、視野が広がり、思考や教養が深まる可能性は非常に高い。
自分と似た考えを持つ人たちばかりとつるむことの危険性を論じて来た。私なんかに言われなくても、このようなことに気付いている読者はいっぱいおられよう。それでも私がこのような記事を書いたのは、ここにオバマ氏が言及した「団結する意志」が深く関わってくるからだ。
人間だったら誰しも、居心地よく、安全に生きたい。だから、特に意識をしなければ、似たような考えを持つ友達、いつも自分を肯定してくる人々が、自分を取り囲むような、そんな安全地帯を作り上げてしまう。あえて、自分をいつも弁護し、自省し、成長していくことを求められるような環境に身を置くことは、意志の力によるしかない。自分の意志で、異なる考えを持つ人ともうまくやってこう、同意はできなくても討議し、妥協し、合意に至ろう、そうやって自分を押していくしかない。
オバマ氏が言ったように、団結や協働が同一性を必要としない、というアイディアには希望がある。特に、閉鎖性が高まっていきそうなこのご時世には。民主主義を、討議を、協力を尊重していきたいとう意志があれば、出自や人種や思想が異なっても、共生していくことは可能なのである。
アマースト大学に到着するころには、就任セレモニーなども終わっているだろう。学生たちの様子も、今後伝えていきたいと考えています。
それでは12時間の空の旅へ。いざ。