2018年3月3日土曜日

リベラルアーツ=教養?(続き) の巻


前回の投稿で、リベラルアーツ教育が育成しようとする教養とは、知識そのものよりも、知識を正しく用いるための思考力や視点のことですよ~と言うようなことを言いました。
料理のアナロジーで言えば、知識=材料で、教養とは料理の原理を理解し、それを作ったことのない料理や扱ったことのない材料にも応用させていける土台的な能力だ、と。

しかし、この言い回しが少し誤解を招くかも、と思ったので、二点ほど改めて説明しようと思います(尚、これは完全に私個人の考え方で、それは違うぜ!と思ったらぜひコメントを残してください)。

第一点。知識を「正しく」使う、の「正しい」は、正解の、という意味ではありません。カレーの作り方にも幅があり、全く違うレシピを使っても美味しいカレーが出来るように、知識の用い方に単純な正解、不正解はないからです。私がここで意味する正しい、とは、正義に適う、ということ。つまり、皆が喜んでくれる美味しいカレーを作ろう、という信念のことです。

ここでまた難しいのは、喜ばれる=食べた人の益になる、とは必ずしもならないことです。味は美味しいジャンクフードはいくらでもありますよね。美味しくて安いことを売りにしているけど、実際には食べた人の栄養を害するような食べ物。

そこで大事なのは、時には美味しいだけじゃなくて、栄養価も高い料理を作り出すということもできる判断力と勇気です。超単純な例を考えれば、例えば社会保障制度の充実化を目指すのであれば、不人気であっても増税しなくてはいけないかもしれない(まず財政のムダを無くせ、という批判はひとまず置いといて)。これは正直言って、万人受けする「美味しい料理」ではありません。でも、貧しい人が教育を、医療を、食事を諦めることがあってはならないという正義感と、実際にそのほうが長期的には国の経済発展につながる、という論理的な思考を合わせて「増税しましょう」という判断になるわけですよね。

ここで、その判断を聞いた側が「えー!!やだー!!」と駄々をこねて手足をジタバタさせるのか、増税は解せない、、、と思いながらもふと立ち止まって、少しリサーチしたり他の人と意見を交わしたりして、「確かに嫌だけど今回はその判断を受け入れよう」となるのかで、市民の質も問われるのだろうと思います。ここで政治体制や民主主義の原理の話になると投稿が永遠に終わらないのでしませんが、要は、教養はリーダーだけのものではない、ということが言いたいのです。民主主義という、国民に主権がある体制においては、市民一人ひとりの教養も問われるのだ、ということです。「これはリーダーの職権乱用だ!」という判断を下せるのも教養があってこそです。

もちろん、増税の例を使ったからと言って、わたしがそれに賛成しているわけでも、増税すれば貧困が解決すると思っているわけでもありません。また、知識をいかに使うか、とう問題は公共政策の分野でのみ効力を発揮するものでもありません。学校、仕事、家庭など、様々な場面で適用できるはずです。

哲学や教養が大事なのは、そこに倫理観、正義感が内在しているからです。知識を、人に喜んでもらえる形で使おうという純真な信念、けれども時には一瞬不人気を買っても人のためになる形で使おうという判断力と勇気。これがリベラルアーツの目指す教養です。



そして、第二点目。リベラルアーツは知識の用い方、考え方に重きを置くと言いましたが、知識そのものを軽視しているわけではありません。むしろ、知識量は大事です。リベラルアーツは、いわゆる詰込み、という知識ばっかりあって使い方がわからないという状態を批判しますが、知識の不足に対しても同様に批判的です。

材料がなかったらそもそもどうやって料理しますか?多くの素材に触れて来なかったら、素材の良し悪しを判断する目はどうやって養いますか?
ジャガイモは汎用性が高い食材です。何種類もの料理を生み出すことができます。でもジャガイモだけで作れる料理はどれだけあるでしょうか?
知識も似たようなものです。限られた知識を、「リベラルアーツで鍛え上げたという思考力」でこねくり回したところで、実体のあるものを生み出せる可能性、そもそも論理的に考えられる可能性は低い。

よく就職面接で使われるフェルミ推定は、論理的思考力をチェックするためのものであり、実際に出した答えの正誤はあまり評価に関係ないと言われています。でも、例えば「一年間で日本人が車のガソリンにかける金額の総計」を導き出すのに、全国民のうちどれくらいの人が車を持っているのか、持っている人はどれくらい車を使用するのか、車の使用料は地方と首都圏でどれくらい異なるのか、人々はそれくらいの頻度で給油して、一回分のガソリンは大体いくらなのか、という判断材料は最低限持ち合わせていないといけません。

考える、という行為には、考える内容がある、という前提があるわけです。
ということで、リベラルアーツは批判的思考力ばかり鍛えて頭でっかちの人間を作り出す教育理念ではないのですよ、という弁護でした。


以上二点の解説で、リベラルアーツの理解が少しは深まったでしょうか?私も教育学の専門家ではないので偉そうなことは言えませんが、日本でもうちょっとリベラルアーツの価値が広まってくれたらいいなあ、とアマーストから願っています。

2018年3月2日金曜日

リベラルアーツ=教養? の巻



大学には二つの矛盾した期待がかけられている

一つは、社会経済的な影響から独立し、学生や研究者が自由な思想と学問の発展に没頭できる 「Ivory tower = 象牙の塔」であること。ここでは、どのような考え方も表現も拒絶されない、"Safe Space"(「安全な空間」)が保証される。実社会に出たら、「現実的じゃない」と一蹴されそうなユートピア的発言も、「こんなこと言ったらのけ者にされる」というような衝撃発言も、大学では許容される。
特に、これまで「当たり前」と思ってきた事柄を突き崩して、一つ一つ律儀に検証することに重きを置くリベラルアーツ教育においては、社会通念や権力構造に屈しない自由な発想ほど好ましく受け取られるようなイメージがある。

その一方で、一つ目と真っ向から対立する期待もある。それは、社会に出たときに「使える」人材へと学生を成長させよ、との期待である。最近の大学には、卒業と共に企業の即戦力になる学生を生み出すことを売りにしているところも多い(と電車のつり革広告を見て思う)。


日本では、こういう大学の在り方、つまり、大企業に入るための準備をする場所、という認識が当たり前になってしまっていて、そもそも疑問を抱くこともない学生が多いのではないか。私もICU(Isolated Crazy Utopia)に通わなければ、そのうちの一人だったと思う。

確かに、某ニュース解説者と秋篠宮家のお陰で「リベラルアーツ」という言葉字体は国内で知名度を高めつつあるけれど、その意味についての理解はまだ行き渡っていない。
「リベラルアーツ=教養をつける教育」という等式は間違っていないのかもしれないけど、教養という言葉がちょっとした誤解を生みだしているからだ。

リベラルアーツが目指す教養人は、立食パーティーで二コマコス倫理学の一節を引用して周囲から感心されるような人間ではない。本当の教養は実践の哲学、つまり批判的思考と芯の通った倫理観である。もし知識が料理の材料ならば、それをどのように切り、下ごしらえをし、火を通し、蒸らし、冷やし、提供するか、その正しい手順を導き出すのが教養、同じ材料で異なる料理を作り出す能力が創造力である。そして同じ材料を使っても美味しい料理とまずい料理があるように、同じ知識を使っても人々の利益になるものとならないものを作り出す可能性がある。そこで悪を食い止め、善を導き出すのがモラル、倫理である。
大学は、材料を与えるだけじゃなくて、それをどう使い料理にするか、しかも栄養価も高く美味しいと喜んでもらえる料理が作れるようになるのか、それを教え、かつ生徒に考えさせる場所でなくてはいけないのだと思う。

社会に出て即戦力になる学生は、限られた知識を限られた方法で使用すること、つまり一つの料理のレシピをとことん叩き込まれているような学生だ。だからカレーをずっと作り続けている分には、そして豚肉が鶏肉に変更されるくらいなら力強く、その道のプロとしてやっていける。でも急に他の料理を要求されたら?魚しか手に入らなくなったら?

リベラルアーツでは、知識量を増やすのと同じくらいかそれ以上に「考え方」や「視点」を多様化させること、つまり土台を築くことを目指している。料理の原理が分かっているから、どの具材が来ても、煮物の代わりに炒め物を要求されても、一つ一つの原理を組み合わせて料理を完成させることができる。

料理のアナロジーを貫徹させるため少々無理なところも無くはなかったかもしれないけど、これで少しリベラルアーツとはなんぞや、というのが少し伝わったかしら?

さらに興味のある方はこちらをお読みください。
The Disadvantages of an Elite Education (William Deresiewicz)

Black Panther ブームがすごい の巻

日本ではやってるのかな、ブラックパンサー。
ブラックパンサーといっても、

「blackpanther 1960」の画像検索結果

ではなく、マーベル映画の

「blackpanther」の画像検索結果

こちらですね。

もうアメリカでは大ブームで、公開から二週間で700億円の売り上げ。期待感もかなり高かったけど、実際に観た人の満足度も高かったみたい。普段映画館行かない私ですが、これくらいは観ようと思い、行ってきました。

ざっくり言えば、アフリカ大陸にあるワカンダという架空の国を舞台に、アメリカに置き去りにされた現国王の従弟と、国王との戦いを描いた映画ですが、何をめぐっての戦いかと言えば、もちろんプライドとか恨みとか国王の座とかいろいろあるんだけど、ワカンダが世界中に秘密にし守ってきたレアメタルなのです。このレアメタルは、すごく頑丈で適応性も高い他に例を見ない金属なのですが、これをワカンダの国富として守りたい国王と、アメリカやヨーロッパで黒人差別に立ち向かう人々へ武器として輸出しようとする従弟が思い切りぶつかるわけです。まあ、このレアメタル輸出はむしろ後付けの理由で、単に自分をアメリカに置き去りにして差別や貧困を味わわせた「本家」への報復がメインだ、という人もいるかもしれないけれど、私個人的にはどちらでもいいかな、という感じです。

むしろ、とても興味深く観たのは、映画のところどころに現在のアフリカ大陸やアフリカンディアスポラ(奴隷として西洋諸国に連れて来られた黒人の末裔)が抱える問題を、時にはコミカルに取り入れていたこと。たとえば、映画の中で戦いの焦点になったレアメタルの問題は、シエラレオネや南アフリカがダイアモンドによって血みどろの戦いに巻き込まれたことを完全に想定しています。実際の歴史では、ヨーロッパ人がダイアモンドを発見してからというもの、大変な利権領土争いや児童労働、内紛につながったけど、もし現地の人々が自分たちで発見していたなら歴史はどう変わっていたのだろうか、と考えたり。

あとは、アフリカ人とディアスポラの微妙なアイデンティティの問題。例えば、アフリカに住む人は、国によってはひどい搾取や内戦に苦しんだ(でいる)かもしれないけど、アメリカであったような構造的な人種差別、集団リンチ、二等市民扱いは受けたことがない。vice versa. この前ケニア人のアマースト生と話していた時に、「アメリカに来るまで自分が黒人だって意識したことなかった」というようなことを言っていた。あと、ナイジェリア出身のゴスペルクワイアのメンバーが、「ゴスペルって黒人奴隷として連れて来られた人の音楽でしょ?もちろん神様を賛美する気持ちは普遍的だから良いっちゃ良いんだけど、私の先祖は幸運なことに奴隷業者に捕まらなかったからさ、、、アフリカンアメリカンの人たちと同じ文化的遺産を共有してるかって言われればちょっと違うかな」と言ってて、考えてみたら当たり前のことなんだけど、「確かに~」って妙に納得したのです。
もちろんどちらのほうが苦しみが大きいとか、どっちが真のアフリカ人か、とかそういう価値判断をするつもりは全くない。大事なのは、日本にいたら注意を払うこともなかったであろうアイデンティティ、歴史、政治のイシューに気付かされたこと。

そして、映画のなかで一番印象強いのは、植民地主義に対する力強い風刺。
とりあえずこれだけ貼りつけておきます。

マーベル映画だけあって、アクション映画としても十分に楽しめるけど、やっぱりこの映画で語られてる特殊な歴史的文化的コンテクスト(分脈)に普段から慣れ親しんでない日本人にはそこまでヒットしないかなー、と考えてます。