2018年3月2日金曜日

リベラルアーツ=教養? の巻



大学には二つの矛盾した期待がかけられている

一つは、社会経済的な影響から独立し、学生や研究者が自由な思想と学問の発展に没頭できる 「Ivory tower = 象牙の塔」であること。ここでは、どのような考え方も表現も拒絶されない、"Safe Space"(「安全な空間」)が保証される。実社会に出たら、「現実的じゃない」と一蹴されそうなユートピア的発言も、「こんなこと言ったらのけ者にされる」というような衝撃発言も、大学では許容される。
特に、これまで「当たり前」と思ってきた事柄を突き崩して、一つ一つ律儀に検証することに重きを置くリベラルアーツ教育においては、社会通念や権力構造に屈しない自由な発想ほど好ましく受け取られるようなイメージがある。

その一方で、一つ目と真っ向から対立する期待もある。それは、社会に出たときに「使える」人材へと学生を成長させよ、との期待である。最近の大学には、卒業と共に企業の即戦力になる学生を生み出すことを売りにしているところも多い(と電車のつり革広告を見て思う)。


日本では、こういう大学の在り方、つまり、大企業に入るための準備をする場所、という認識が当たり前になってしまっていて、そもそも疑問を抱くこともない学生が多いのではないか。私もICU(Isolated Crazy Utopia)に通わなければ、そのうちの一人だったと思う。

確かに、某ニュース解説者と秋篠宮家のお陰で「リベラルアーツ」という言葉字体は国内で知名度を高めつつあるけれど、その意味についての理解はまだ行き渡っていない。
「リベラルアーツ=教養をつける教育」という等式は間違っていないのかもしれないけど、教養という言葉がちょっとした誤解を生みだしているからだ。

リベラルアーツが目指す教養人は、立食パーティーで二コマコス倫理学の一節を引用して周囲から感心されるような人間ではない。本当の教養は実践の哲学、つまり批判的思考と芯の通った倫理観である。もし知識が料理の材料ならば、それをどのように切り、下ごしらえをし、火を通し、蒸らし、冷やし、提供するか、その正しい手順を導き出すのが教養、同じ材料で異なる料理を作り出す能力が創造力である。そして同じ材料を使っても美味しい料理とまずい料理があるように、同じ知識を使っても人々の利益になるものとならないものを作り出す可能性がある。そこで悪を食い止め、善を導き出すのがモラル、倫理である。
大学は、材料を与えるだけじゃなくて、それをどう使い料理にするか、しかも栄養価も高く美味しいと喜んでもらえる料理が作れるようになるのか、それを教え、かつ生徒に考えさせる場所でなくてはいけないのだと思う。

社会に出て即戦力になる学生は、限られた知識を限られた方法で使用すること、つまり一つの料理のレシピをとことん叩き込まれているような学生だ。だからカレーをずっと作り続けている分には、そして豚肉が鶏肉に変更されるくらいなら力強く、その道のプロとしてやっていける。でも急に他の料理を要求されたら?魚しか手に入らなくなったら?

リベラルアーツでは、知識量を増やすのと同じくらいかそれ以上に「考え方」や「視点」を多様化させること、つまり土台を築くことを目指している。料理の原理が分かっているから、どの具材が来ても、煮物の代わりに炒め物を要求されても、一つ一つの原理を組み合わせて料理を完成させることができる。

料理のアナロジーを貫徹させるため少々無理なところも無くはなかったかもしれないけど、これで少しリベラルアーツとはなんぞや、というのが少し伝わったかしら?

さらに興味のある方はこちらをお読みください。
The Disadvantages of an Elite Education (William Deresiewicz)

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