2016年9月8日木曜日

奨学金で学ぶということについて考える の巻

「誰のための、何のための教育か」というセミナーで、アメリカの貧困層にある子どもたちが、ドラッグ、アルコール、多種多様な犯罪、環境汚染に囲まれて生活し、まともな教育を受ける機会ばかりか、そのような環境から抜け出したいという希望さえも奪われている、というような文章をいくつか読んでいる。
類似した内容の文章は、日本国内の文脈でもたくさん読んできた。そして、その都度、自分がかなり恵まれた環境にいる分、自己実現のためだけではなく、学ぶ機会を剥奪された人々に対する責任感を持って学ぶべきだと考えてきた。


だが、、、なんなのだろうか、今抱えている、ズシンとした重みと焦燥感を掛け合わせたような感情は。なぜ、今回は、今までよりもずっと胸がつまるのだろうか。

たぶん、奨学金だ。自分が奨学生として、ここにいるという事実が、以前にも読んだことのあるような文章に、違う色の光をあてているのだ。


アマースト大学は、全米リベラルアーツカレッジランキングで、毎年1位か2位にランクインする、いわゆる名門校である。しかし高いのは、ランクだけではない。学費も異常な高額である。
学費だけで、軽く550万円ほど、そこに寮費やミールプラン、保険料、教科書代を入れれば、1年間で750万円ほどかかる。そんな環境に、私は、奨学生としている。

少し恐ろしい事実だと思う。

そんなことしても仕方ないと思われるかもしれないが、私の奨学金と同等の金額を、今読んでいる文章に出てくるような子どもたちの教育にあてたら、どれくらいの人数が高校卒業資格を得られるのだろうか、とか、何人の人が飢えをしのげるのだろうか、とか、どうしても考えてしまう。
そして、わたしは、それだけの価値を持っている、あるいは将来的に生み出せるだろうか、とも思う。

この問いかけ自体が傲慢な気もしてくる。どうして750万円相当のワクチン支援で死を免れた多くの命と、私一人が生み出す価値とを比べることができようか。命に勝る価値などないはずではないか。

気分が暗くしかならないようなこの問題からは、目をそらそうと思えば簡単にそらせてしまう。人間は自分に都合のいいことしか認知しないから。でも、私が全米一学費の高い大学で、奨学生として学ぶ以上、ずっと向き合っていかなくてはいけない問いなのだ。卒業してからも、ずっと。

こうやって他者を意識したり、他者に責任を負ったりすることでしか、人は謙虚になれないのかもしれないなあ。ありきたりだけど、私の存在が誰かの犠牲の上に成り立っていることを、授業やクラブ活動で忙しくなっても、忘れないようにしたいです。


夕日に照らされるJohnson's Chapel.

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