2016年9月27日火曜日

教育はなんのためにあるのか の巻

「誰のための、何のためのの教育か」というタイトルのゼミ形式の授業を取っている。編入生用のライティングセミナーである。
これまで、Robert Putnamというハーバード大学ケネディスクール教授である政治学者と、Jonathan Kozolという教育・社会問題を中心に扱うノンフィクションライターの文章を読んできた。双方とも、どこに原因があるか、ということに関しては意見を異にするも、21世紀の米国において、人種間や男女間で受ける教育のクオリティのギャップは小さくなって来ているが、その代わりに、クラス間ギャップ(貧困層と富裕層)は増大していることを指摘している。
K-12 schools(小学校~高校)の学校教育は、そのクラス間ギャップを拡大するのか、縮小するのか、はたまた特に何の影響も及ぼさないのか、それを考えるのが一つ目のペーパーのテーマである。締め切りが着々と迫って来ていて、やばい。



それはさておき、本日のクラスのテーマは、ずばり、「教育は何のためにある(する)のか?」である。

みんなの意見はばらばら。
いい仕事を得て、家族を養うため、自己実現のため、お金持ちになるため、という私的領域にフォーカスした意見。
自分に恩恵を与えてくれた社会に還元するため、このような循環や営みを絶やさないため、という公共性重視の意見。
また、何が正しく、何が悪いことなのか、という価値観を身に付ける、あるいは少なくともそれを自分で考えられるようになるための判断基準の選択肢を増やす(これを一般に「視野を広げる」と呼ぶのだろう)ため、というとってもリベラルアーツな意見。



みんなの意見を図式化したマインドマップ↓





70分間話しても、統一見解に至らなかった。が、このままでは気持ち悪いので、私なりにこの授業で得た考えをまとめたいと思う。

まず、その個人が育ってきた環境や受けてきた教育、そして学問的興味によって、「教育」の概念そのもの理解がぜんぜん異なるということ。裕福な環境で、学歴のある親に育てられた子供は、教育の意味や価値を、自己実現のためのツールとして捉えやすい。言い換えれば、純粋に自分の夢を追うために、教育を利用する。大手外銀やコンサルに勤めたいとか、政府系NGOで貧しい子どもたちのために働きたいとか。一方で、恵まれない環境で育ちながらも大学教育を受けるところまで来た人は、自己実現以外のところに重きを置く傾向がある。例えば、奨学金を与えてくれた国に感謝しているからその恩返しをしたいとか、自分の子どもにはより良い環境で教育を受けさせたいから良い企業に入ってお金を稼ぎたいとか(このような目標を自己実現的目標と完全に切り離せるかどうかは議論の余地があるが)。
編入生は、ふつうに一年生から入学した人に比べてバックグラウンドの多様性があるので、話していてとても興味深い。

第二に、「教育」という概念はあまりにも広大すぎるので、その意味を考える上では、誰がどのような環境で受けている教育か、というコンテクスト(文脈)をまず定めないと議論があっちこっちに行くということ。たとえば、アフリカにおけるエイズ予防の啓蒙教育は、情報・知識が無いことによって命が脅かされることがあってはならない、という普遍的な人権思想に基づいたものだし、識字教育もその延長だろう。一方で、大学の一般教養教育は、人としての深みや幅を広げるもので、この種の教育を受けなければ命が危険にさらされたり、一生肉体労働に従事しなければならなかったりするわけではない(個人的には、大学における人文教育の重要性は訴えたいが)。この二例は極端に異なる「教育」を指しているが、文脈の共有が建設的な議論には必要不可欠である、ということを示したかった。

第三に、授業で話された「教育」は、あくまでも個人の可能性や選択の幅を広げる、ポジティブなものとして捉えられていたが、通時的・共時的に見ても、教育がネガティブに使われることもとても多いということである。例えば、アメリカの奴隷制時代は、キリスト教の牧師や宣教師が黒人たちが「より良い人間」=「白人の農場主に従順で、罰せられてもそれは自分のせいだと思いこむ奴隷」になるように「教育」した。戦前・戦中の日本においても、子どもたちは、天皇を現人神として崇拝し、神国日本の勝利のためにすべてを捧げるように「教育」された。
もちろん、実際に教えていたひとびと(宣教師、教師、親など)が、その考え方に賛同していたかどうかはまた別問題である。ただ、少なくとも教育が、それを受ける個人の自己決定権や選択可能性を広げるためではなく、むしろ狭めるために使われていたという事実は認識しなければいけない。そして、このような事象は過去のことではなく、今日でも決して珍しいことではない、ということも。



このブログを読んでくださっているあなたは、どう思いますか?
大学に行った人は、なぜ行ったんですか?教育はどこからどこまでを含むのですか?教育へのアクセスが当たり前のようにある人にとっての教育と、ラッキーな人しかそのチャンスがないような環境での教育は、どんな違いがありますか?結局、教育は誰のためのものなんですか?

答えがすぐに出てこないのは当たり前だ。長年、教育者や哲学者が意見を戦わせても一つに落ち着かないのだから。しかし、このような問いを一度も考える必要もなく今に至っているなら、とりあえずすごい幸せな人生を送ってきた、ということだと思う。
教育を受けられることは、当たり前のことではない。今更だけど。

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